繰り下げて増やした年金は、配偶者の遺族厚生年金には引き継がれない
繰り下げて増やした年金は、配偶者の遺族厚生年金には引き継がれない
増額分がどこで止まるのか ― 報酬比例部分・併給調整・時効と、二〇二八年改正の射程
0.7と84。繰り下げの話は、たいていこの二つの数字から始まる。1か月遅らせるごとに0.7%、70歳まで待てば42.0%、75歳なら84.0%。日本年金機構の繰下げ増額率早見表(2026年3月24日更新)にそう並んでいる。この増額率は一生変わらない。
変わらないのは、自分が受け取る年金の話だ。では、自分が先に亡くなったとき、残された配偶者の手元には、増やした分のいくらが残るのか。
機構と厚生労働省の資料を突き合わせた答えは、あっさりしている。ゼロである。しかも、止まる場所は一か所ではない。
1. 遺族厚生年金の土台は「報酬比例部分」で、繰下げ加算額はそこに乗らない
遺族厚生年金の額は、死亡した人の老齢厚生年金の報酬比例部分の4分の3。日本年金機構「遺族厚生年金(受給要件・対象者・年金額)」(2026年4月1日更新)の書き方は、これだけだ。報酬比例部分とは、厚生年金の加入期間と過去の報酬から計算される額を指す。
一方、繰下げでつく上乗せは、機構の用語では「繰下げ加算額」という。老齢基礎年金の額(振替加算額を除く)と老齢厚生年金の額(加給年金額を除く)に増額率を乗じて計算する、と繰下げのページに定義がある。乗じた結果として上に積まれるものであって、土台である報酬比例部分そのものを太らせるわけではない。
だから75歳まで待って84%増やした人が亡くなっても、配偶者が受け取る遺族厚生年金は、繰り下げなかった場合と1円も変わらない。ここが出発点になる。
2. 配偶者に自分の厚生年金があると、高い方の式から自分の分が差し引かれる
話はもう一段ある。65歳以上で自分の老齢厚生年金を受け取る権利がある人が、配偶者の死亡による遺族厚生年金を受けるときは、二つの額を比べて高い方が採用される。①死亡した人の報酬比例部分の4分の3、②死亡した人の報酬比例部分の2分の1と、自分の老齢厚生年金の2分の1を合算した額。
数字を入れてみる。夫の報酬比例部分が年120万円、妻自身の老齢厚生年金が年80万円なら、①は90万円、②は60万円と40万円で100万円。高い方の100万円が、遺族厚生年金の額になる。
そのうえで妻は自分の老齢厚生年金を全額受け取り、遺族厚生年金のほうは老齢厚生年金に相当する額が支給停止となる。手元に来るのは、自分の80万円に差額20万円を足した100万円。この扱いは平成16年の年金制度改正によるもので、実際に切り替わったのは平成19年4月1日だ(機構、前掲)。自分が納めた保険料を年金額に反映させる、という考え方に立っている。
夫が75歳まで繰り下げていれば、生前の老齢厚生年金は120万円ではなく220万8千円になっていたはずだ。それでも妻の側の100万円は動かない。保険料は無駄にならない。繰り下げるという判断だけが、配偶者に渡らない。
3. 待機の途中で亡くなると、本人が生きて請求したときの「5年前みなし」は使えない
三つ目は、繰り下げている最中に亡くなった場合だ。機構は繰下げの注意点で、繰下げの請求を遺族が代わって行うことはできない、と断っている。遺族が未支給年金を請求できる場合は、65歳時点の年金額で決定したうえで、過去分が一括で支払われる。ただし、請求した時点から5年以上前の年金は時効で受け取れない。
65歳時点の年金額が年180万円の人が、75歳まで待つつもりで72歳で亡くなったとする。65歳からの7年分は1,260万円だが、遺族が受け取れるのは直近5年分の900万円まで。360万円は時効で消える。増額率はもちろん乗らない。
ここで効いてくるのが、本人が生きていた場合との落差である。同じ72歳の時点で本人が「繰下げはやめて、65歳からの本来の年金をさかのぼって受け取る」と選べば、特例的な繰下げみなし増額制度が働く。70歳に到達した日より後の請求なら、請求の5年前の日に繰下げ申出があったものとみなす、という制度だ(機構「年金の繰下げ受給」)。72歳0か月で請求すれば、みなしの申出日は67歳0か月。65歳から67歳までの24か月分、16.8%の増額が乗る。年額は210万2,400円、5年分で1,051万2千円になる。
亡くなった場合の900万円との差は、151万2千円。同じ5年分でも、本人が請求するか遺族が請求するかで、これだけ違う。しかもこの特例は、請求の5年前の日以前から遺族年金を受け取る権利がある場合には適用されない、という除外まで付いている。
税の扱いも見ておきたい。遺族が請求して受け取った未支給年金は、その遺族の一時所得となり、相続税はかからない(国税庁タックスアンサーNo.4123)。5年分をまとめて受け取れば、一時所得の特別控除50万円を引いた残りの2分の1が、その年の総所得に算入される。900万円なら425万円だ。7年かけて受け取るはずだったお金が、1年に圧縮されて課税される。
4. 順序が逆でも止まる。配偶者に先立たれると、自分の繰下げが固定される
ここまでは、自分が先に亡くなる場合の話だった。逆はどうか。
機構の繰下げの注意点には、65歳の誕生日の前日から66歳の誕生日の前日までの間に障害給付や遺族給付を受け取る権利があるときは、繰下げ受給の申出ができない、とある。さらに、66歳に達した日以後の待機期間中に他の公的年金の受給権を得た場合は、その時点で増額率が固定され、請求を遅らせても増額率は増えない。配偶者が死亡して遺族年金が発生した場合、という例示まで付いている。
繰り下げて増やすという計画は、配偶者の死という、予定に組み込めない出来事で止まる。65歳から66歳までの1年間に起きれば、そもそも申出ができない。増額分が遺族に渡らないだけでなく、残された側の増額も、そこで打ち切られるということだ。
この点は2028年(令和10年)4月に動く。令和7年の法律改正により、令和10年3月31日時点で遺族厚生年金を受け取る権利があり、かつ65歳に到達していない人(昭和38年4月2日以降生まれ)は、老齢厚生年金については遺族厚生年金の請求を行っていない場合に限り、老齢基礎年金については請求の有無にかかわらず、繰下げ請求ができるようになる(機構、前掲)。裏返せば、昭和38年4月1日以前に生まれた人に、この緩和は届かない。
5. 「原則5年で打ち切り」の報道は、60歳以降に権利が生じる人には及ばない
遺族厚生年金といえば、2025年6月13日に成立した年金制度改正法で「原則5年の有期給付になる」という話が広く報じられた。土台そのものが5年で消えるなら、ここまでの計算はどうなるのか。対象は限られている。
厚生労働省「遺族厚生年金の見直しについて」(令和7年6月30日更新)によれば、施行は2028年4月の予定で、原則5年の有期給付の対象になるのは、18歳年度末までの子がいない配偶者のうち、女性は2028年度末時点で40歳未満の人、男性は60歳未満の人である。そして影響を受けない人として、四つが挙げられている。すでに遺族厚生年金を受給している人、60歳以降に受給権が発生する人、18歳年度末までの子を養育する間にある人、2028年度に40歳以上になる女性。
老後に配偶者を亡くす、というこの記事が扱ってきた場面は、二つ目に当たる。5年で打ち切られる話ではない。なお有期給付の対象になる人には有期給付加算が上乗せされ、額は現行のおよそ1.3倍になる、というのも同じページに書かれている。
6. 繰下げ加算額は渡らないが、妻の年齢と夫の加入期間で乗るものはある
繰下げでつけた上乗せは渡らない。では、遺族の側に別枠で乗るものはないのか。中高齢寡婦加算がある。夫が亡くなったとき40歳以上65歳未満で、生計を同じくする子がいない妻などに、40歳から65歳になるまでの間、年額635,500円が加算される(機構「遺族厚生年金」2026年4月1日更新)。月に直すと約5万3千円。25年間受ければ1,500万円を超える。ただし、夫が老齢厚生年金の受給権者だった場合などは、厚生年金保険の被保険者期間が20年以上あることが条件になる。65歳以降は、昭和31年4月1日以前生まれの妻について、経過的寡婦加算が引き継ぐ。
繰り下げるかどうかで動く金額ではない。夫が何年勤めたかと、妻が何歳かで決まる。
繰り下げは、寿命に賭ける制度ではない。自分の寿命にしか効かない制度である。何歳まで生きるかという問いには答えが出る。配偶者に何を残すかという問いに、この制度は最初から答えを持っていない。
次の一手をひとつだけ挙げるなら、ねんきん定期便かねんきんネットを開いて、自分の老齢厚生年金の「報酬比例部分」がいくらかを確かめることだ。遺族厚生年金の土台はその4分の3で、繰り下げるかどうかとは無関係に、すでに決まっている。ここで使った金額はいずれも筋道を示すための例であり、年金額は毎年度改定され、共済期間や厚生年金基金があれば扱いも変わる。自分の見込み額と、2028年の改正が自分に適用されるかどうかは、年金事務所か「ねんきんダイヤル」で確かめたほうが早い。
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