年金の繰り下げを決める前に ― 「増額率」より先に確かめておきたいこと

年金の繰り下げを決める前に

「増額率」より先に確かめておきたいこと

年金の繰り下げを決める前に

繰り下げの話は、たいてい増額率から始まる。1か月遅らせるごとに0.7%75歳まで遅らせれば最大84%。日本年金機構もそう明記している(日本年金機構「年金の繰下げ受給」、20266月確認)。数字は正しい。けれど、繰り下げが自分に向くかどうかを決めるのは、この増額率ではない。向き不向きを分けるのは、もっと手前にある。受け取らない数年をどう食べるか。年下の配偶者がいるか。まだ働くか。そもそも繰り下げられる立場か。増額率の早見表を眺める前に、確かめておくことが六つある。順に挙げていく。

1. 受け取らない数年分を、どこから出すか

受け取らない数年分を、どこから出すか

繰り下げは「増額制度」ではない。受給を先送りして、その代わりに増やす制度だ。70歳まで待てば、65歳から70歳までの5年間、年金は1円も入らない。

その5年を何で賄うか。退職金か、預金か、まだ働いて得る給与か。当てがなければ、繰り下げという選択肢はそもそも成立しない。増額率0.7%は、待てる人にだけ効く(日本年金機構「年金の繰下げ受給」)。最初に確かめるのは、増え方ではない。待てるかどうかだ。

2. 加給年金は増えない。待っている間は止まる

加給年金は増えない。待っている間は止まる

年下の配偶者がいる人は、ここを飛ばすと損をする。老齢厚生年金には、加給年金という上乗せが付くことがある。年金版の家族手当だ。令和8年度(2026年度)の配偶者加給年金は、本体が243,800円。受給者の生年月日に応じた特別加算が乗り、昭和1842日以後生まれなら特別加算179,900円が加わって、合計423,700円になる(令和8年度の年金額改定、厚生労働省・日本年金機構、20264月適用)。

この加給年金は、繰り下げても1円も増えない。それどころか、繰り下げて待っている期間中は受け取れない(日本年金機構「年金の繰下げ受給」)。厚生年金を5年繰り下げれば、年40万円超を5年分、まるごと取りこぼす計算になる。配偶者に付く振替加算も同じで、増額の対象にならないうえ、待機中は止まる。

逃げ道はある。老齢基礎年金と老齢厚生年金は、別々に繰り下げられる。加給年金は厚生年金の側に付く。だから厚生年金は65歳から受け取って加給年金を確保し、基礎年金だけを繰り下げる、という組み合わせも選べる(同)。全部まとめて繰り下げるものだと思い込むと、この40万円前後を毎年取りこぼす。

3. 働き続けるなら、止められた分は増額に乗らない

働き続けるなら、止められた分は増額に乗らない

65歳を過ぎても厚生年金に加入して働く人には、もう一段の注意が要る。賃金と老齢厚生年金の合計が一定額を超えると、在職老齢年金の仕組みで厚生年金の一部が止まる。その基準額は、令和8年度(20264月)から月65万円に引き上げられた。前年度は51万円だった(厚生労働省「令和8年度の年金額改定・在職老齢年金の基準額改定」、令和7年改正法・20264月施行)。

基準が上がった分、止まる人は減る。だが、止まった人には別の問題が残る。在職老齢年金で支給停止された部分は、繰り下げても増額の対象にならない。繰下げ加算額は、待機期間中の平均支給率を乗じて計算される仕組みだからだ(日本年金機構「年金の繰下げ受給」)。賃金が高いほど止まる額は大きく、その分だけ84%増の母数から外れる。働きながら繰り下げる人は、増えるはずだった額が見込みより小さくなりうる。

4. そもそも繰り下げられない人がいる

. そもそも繰り下げられない人がいる

繰り下げは誰でも選べるわけではない。65歳の誕生日の前日から66歳の誕生日の前日までの間に、障害給付や遺族給付を受け取る権利がある人は、繰り下げの申出ができない(日本年金機構「年金の繰下げ受給」)。

ただし例外がある。障害基礎年金、または旧国民年金法による障害年金だけを受け取る権利がある人は、老齢厚生年金の繰り下げを申し出られる。また、共済組合等から老齢厚生年金を受けていた人が、新たに日本年金機構の老齢厚生年金を受けられるようになった場合、その機構分は繰り下げの対象にならない(同)。自分が当てはまるかどうかは、いま受け取っている年金の種類で決まる。増額率を計算するより先に、申出ができる立場かを確かめる。

5. 待っている間に配偶者を亡くすと、増額率はそこで止まる

待っている間に配偶者を亡くすと、増額率はそこで止まる

繰り下げの難しさは、待っている間に前提が変わることだ。66歳に達した日より後の待機期間中に、ほかの公的年金の受給権を得た場合――たとえば配偶者が亡くなって遺族年金が発生した場合――その時点で増額率が固定される。その後に請求を遅らせても、増額率はもう増えない(日本年金機構「年金の繰下げ受給」)。

打ち切りといっても、そこまで積み上げた増額が消えるわけではない。固定された率の年金を、ほかの年金が発生した月の翌月分から受け取れる(同)。とはいえ、75歳までの84%を当て込んで待っていた人にとって、途中で率が止まる意味は大きい。長く待つほど、こうした不確実性は積み上がる。何歳まで生きるかは選べない。配偶者にいつ何が起きるかも、選べない。

6. 70歳を過ぎてからでも、引き返す出口はある

70歳を過ぎてからでも、引き返す出口はある

気が変わったときの退路も、先に知っておきたい。繰り下げを選ばず、65歳からの本来の年金をさかのぼって受け取る道がある。70歳より後にこれを選ぶと、請求の5年前に繰り下げの申出があったものとみなされ、増額された過去分を5年分、一括で受け取れる。特例的な繰下げみなし増額制度という(日本年金機構「年金の繰下げ受給」、同「令和54月から老齢年金の繰下げ制度の一部改正が施行されました」)。対象は、昭和27年(1952年)42日以後生まれ、または平成29年(2017年)41日以後に受給権が発生した人だ。

ただし、万能の出口ではない。増額率が乗るのは請求の5年前までで、それより昔にはさかのぼらない。80歳以後に請求する場合や、請求の5年前の日より前から障害年金・遺族年金を受け取る権利があった場合は、この制度は使えない(同)。しかも、過去分を一括で受け取れば、その年の所得が膨らみ、医療保険・介護保険の自己負担や保険料、税金にさかのぼって響くことがある(同)。出口はあるが、待った年数すべてが報われるわけではない。

増額率の早見表は、最後に見ればいい。先に確かめるのは、待てる蓄えがあるか、年下の配偶者がいるか、働き続けるか、繰り下げられる立場か。そこだ。そして、額面84%が手取り84%になるわけではないことも、頭の片隅に置いておく。年金は雑所得として課税され、国民健康保険料や後期高齢者医療・介護保険料も、所得に連動して上がるからだ。

ここに挙げた金額や基準額は2026年度(令和8年度)のもので、制度も毎年のように手が入る。自分の見込額は、ねんきんネットか最寄りの年金事務所で、いまの条件を当てはめて出せる。加給年金や在職老齢年金、遺族年金が絡む人は、その場で具体的な数字を確認しておきたい。条件を一つずつ当てはめた数字を手元に置いてから、繰り下げるかどうかを決める。順番さえ間違えなければ、84%という数字に振り回されずにすむ。

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