がん治療を選ぶとき、「自分らしい人生」はどこに置かれるのか

がん治療を選ぶとき

「自分らしい人生」はどこに置かれるのか

厚生労働省の資料をさかのぼると、ある一つのガイドラインの名前が、二段階に分けて書き換えられているのがわかる。出発点は2007年(平成19年)、「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」という名前だった。それが2015年(平成273月)に、「終末期」という臨床の言葉を外して「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」へと改称される。さらに2018年(平成303月)の改訂で「ケア」が加わり、いまの「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」になった(厚生労働省「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドラインの改訂について」平成30314日報道発表)。臨床の用語だった「終末期」を、本人の時間を指す「人生の最終段階」へ置き換える。たったそれだけの言い換えに見えて、ここには、がんの治療を選ぶときに私たちがいちばん迷う場所が、そのまま埋め込まれている。

医学は、どの治療が統計的に長く生かすか、どんな副作用がどれくらいの頻度で出るかを、かなりの精度で教えてくれる。けれど、その治療で延びた時間を自分がどう過ごしたいのか――そこから先は、医学のデータには書かれていない。書けない、と言ったほうが正確だ。がんの治療を選ぶという行為は、いつのまにか「医学的にいちばんいい選択は何か」という問いから、「自分にとっていちばんいい選択は何か」という別の問いへと、静かにすり替わっていく。この二つは、重なることもあれば、はっきりずれることもある。そのずれをどう扱うか。いくつかの公的な仕組みに沿って、たどってみたい。

1. 医師の言う「いちばんいい治療」は、たいてい「医学的に」いちばんいい、という意味だ

タイトル: 記事内画像 - 説明: がん治療の意思決定に関する説明画像

がんと診断されたあと、多くの人がまず医師から治療方針の説明を受ける。標準治療という言葉も、たいていそこで初めて耳にする。標準治療は「並の治療」ではない。これまでの臨床試験で有効性と安全性が確かめられ、現時点で最もすすめられる治療を指す(国立がん研究センター がん情報サービス)。だから医師が「これがいちばんいい治療です」と言うとき、その言葉はおおむね正しい。ただし、そこでの「いちばんいい」は、集団のデータを見渡したときに最も成績がよい、という意味での「いちばんいい」だ。主語は、目の前の一人ではなく、その治療を受けた大勢の平均のほうにある。

難しいのは、平均としての「いちばん」が、目の前の一人にとっての「いちばん」と必ずしも一致しないことだ。再発のリスクを数パーセント下げるために、半年や一年にわたって続く治療を受けるかどうか。その数パーセントを迷わず取りにいく人もいる。いっぽうで、その期間に削られていく仕事や、家族と過ごす時間や、副作用で痩せていく日常のほうを重く見る人もいる。どちらが賢いという話ではない。医学のデータは「再発リスクが何パーセント下がるか」までは答えてくれる。けれど「その数パーセントと、あなたが手放したくないものと、どちらが重いか」には、最初から答えを持っていない。そこは、本人の価値観でしか埋められない空欄として、はじめから空けてある。

2. 説明と同意(IC)と共同意思決定(SDM)は、決める主語が違う

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医療の意思決定には、いくつかの型があることが知られている。ひとつは、医師が十分に説明し、患者が納得して同意する「インフォームド・コンセント(IC)」だ。説明と同意、納得診療とも呼ばれる。がん検診の分野でSDMの運用を整理した「がん検診 Shared Decision Making 運用マニュアル」2022年度版(厚生労働科学研究費補助金がん対策推進総合研究事業の研究班が作成、20233月公表)などの整理に沿えば、ICは、最も適した治療法がはっきりしていて、それが本人にとっても最善だと医師が示せる場面で力を発揮する。進むべき道が一本に見えているとき、私たちはその道を理解し、納得して進む。

ところが、がんの治療では、医学的に「ありうる」選択肢が複数並ぶ場面が珍しくない。手術か、放射線か、薬物療法か。あるいは、積極的にがんを叩く治療と、つらさをやわらげるケアに重心を移す選択と。どれもそれなりに筋が通っていて、データだけでは一本に絞りきれない。こういうときに必要になるのが、共同意思決定(SDMShared Decision Making)だと言われる。医療者は選択肢とその利益・リスクを机に乗せ、患者は自分の価値観や暮らしぶりを机に乗せる。その両方を見ながら、一緒に決めていく。決定を医師に丸投げするのでも、専門的な情報を理解しきれない患者にすべてを押しつけるのでもない。SDMがうまくいかない典型は、この「丸投げ」がどちらか一方の側で起きたときだ。だとすれば、自分が何を大事にしているかをあらかじめ言葉にしておくことは、わがままでも医師への不信でもなく、共同意思決定の机に持ち寄る材料をそろえる作業に近い。

3. 「人生会議」を終末期の準備だと思っているうちは、半分しか使えていない

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その「言葉にしておく」を、もう少し早い段階から、繰り返しやっておこうという考え方がある。厚生労働省が2018年に愛称を決めた「人生会議」――専門用語でアドバンス・ケア・プランニング(ACP)と呼ばれるものだ。厚労省はこれを、もしものときのために、自分が望む医療やケアを前もって考え、家族など信頼できる人や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有していく取り組みと説明している。愛称は1,073件の公募から選ばれ、1130日(いい看取り・看取られ)が「人生会議の日」とされた。

ここで取り違えられやすいのが、人生会議を「終末期に備えて延命治療の希望を書類に残すこと」だと受け取ってしまう点だ。厚労省自身が強調するのはむしろ逆で、文書を作ることが目的ではなく、価値観や希望を互いに伝え合うプロセスそのものに本質がある、という。なぜそれを「前もって」やるのか。理由は身も蓋もない。命の危険が迫った状態になると、約7割の人が、自分のことを自分で決めたり望みを人に伝えたりできなくなるとされているからだ(厚生労働省 人生会議の普及啓発資料)。つまり、いちばん「自分らしい人生をどこに置くか」を決めたい場面で、その本人がもう語れなくなっている確率のほうが高い。人生会議とは、終末期の心構えというより、判断の主語を自分の手元に置いておくための、ずいぶん現実的な段取りなのだと思う。冒頭のガイドラインが名前から「終末期」を外して「人生の最終段階」に変えたのも、視点を医療の側から本人の人生の側へ、わずかにずらすためだった。

4. 価値観を一人で抱え込まずに言葉にできる、無料の窓口がある

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とはいえ、自分の価値観をいきなり主治医に向かって整理して話せるかというと、診察室の数分でそれをやるのは難しい。考えを整える手前の段階で使える場所がある。全国のがん診療連携拠点病院などに置かれた「がん相談支援センター」だ。がんに詳しい看護師やソーシャルワーカーが対応し、その病院にかかっていない人でも、家族でも、無料で相談できる。電話でも面談でもいい。相談した内容が、本人の同意なしに担当医や病院のスタッフに伝わることもない(国立がん研究センター がん情報サービス「がん相談支援センターとは」)。全国の窓口は同センターのがん情報サービスから探せる。電話で直接話したいときは、がん情報サービス サポートセンター(ナビダイヤル0570-02-3410、または03-6706-7797、平日10時~15時/土日祝・年末年始を除く)という窓口もある。相談は無料で、通話料だけが自己負担になる。

ひとつだけ、勘違いしてはいけないことがある。がん相談支援センターは、担当医に代わって治療の中身を判断してくれる場所ではない。同センター自身がそう明記している。治療方針そのものは、最後はやはり主治医との対話の中で決まる。診断や見通しに納得がいかなければ、別の医師の意見を聞くセカンドオピニオンという道もある。相談窓口も、セカンドオピニオンも、人生会議も、向いている方向は結局ひとつだ。決定の主語を、自分と、自分が信頼する人たちの側に取り戻すための道具なのだと思う。なお、ここに書いたのは公的な制度と一般的な考え方であって、個別の病状や治療方針への助言ではない。あなたの体とあなたの選択については、必ず主治医や、いま挙げたがん相談支援センターの窓口に直接あたってほしい。記載した連絡先や受付時間は本稿執筆時点(20266月)のものなので、利用の前に各窓口の最新情報を確認してほしい。

最初の問いに戻る。がん治療を選ぶとき、「自分らしい人生」はどこに置かれるのか。この問いに、私は答えを書かない。書けるものでもない。延びるかもしれない時間の長さを最優先に置く人生も、その時間の中身のほうを優先する人生も、どちらも「自分らしい」と呼ぶに値する。ただ一つだけ言えるのは、その置き場所を、誰かが黙って代わりに決めてしまうこと――沈黙のまま、なんとなくの流れで決まってしまうこと――だけは、避けられるということだ。名前から「終末期」を外して「人生」のほうへ寄せた、あのガイドラインが言いたかったのも、たぶん、そういうことだった。

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