卒婚という選択 ― 「離婚しない自由」はどんな夫婦に成立するのか

卒婚という選択

「離婚しない自由」はどんな夫婦に成立するのか

卒婚という選択

「離婚か結婚継続かの二者択一ではなく」――卒婚という言葉を世に出した杉山由美子は、二〇〇四年の著書『卒婚のススメ』(オレンジページ)で、夫婦の後半生をそう書いた。婚姻関係は戸籍に残したまま、互いに必要以上に干渉せず、それぞれが自由にやりたいことをやる。教育や女性の生き方を長く取材してきた書き手の造語は、二十年かけて静かに広まった。博報堂の100年生活者研究所が二〇二四年に公表した調査では、この言葉を知っている人は約四割。「実践してみたい」と答えた人は、すでに実践している人を含めて五割を超え、男性でも五割近くに達していた(同研究所「『卒婚』はもう古い?」二〇二四年公表、調査は二〇二三年十二月)。

ただ、その本にも、後追いの記事にも、お金の話はほとんど出てこない。出てくるのはたいてい「自由」「尊重」「ゆるやかな関係」だ。きれいな言葉だと思う。でも、ここを抜きにして卒婚を語るのは、正直なところ片手落ちだ。離婚しない自由というのは、心構えの問題ではなく、二つの具体的な条件の上にしか立たない。

1. 名づけた本にも、お金の話はほとんど出てこない

名づけた本にも、お金の話はほとんど出てこない

杉山の本が描くのは、別居結婚を選んだ夫婦、夫が妻のサポートにまわった夫婦、それぞれの後半生だ。取材されたのは六組。読むと、なるほどこういう生き方もあるのか、と思う。けれど登場する人たちは、たいてい、それぞれが自分の食い扶持を持っている。妻が世帯主で夫が自由業、という組み合わせもある。つまり、語られていないだけで、卒婚の土台にはすでにお金の独立があった。

ここを言葉のやわらかさが覆い隠す。「卒婚」と聞くと、関係を更新する前向きな選択に聞こえる。だが片方が、あるいは双方が、相手の収入なしには暮らせない場合、卒婚と称しても実態は同居の継続にすぎない。自由をうたいながら、自由に動ける財布がない。これは結構しんどい。だから最初に見るべきは、相手への気持ちではなく、別々に生きるだけの金銭的な足腰が、二人それぞれにあるかどうかだ。

2. 婚姻を切らなければ、遺族年金も相続の優遇も扶養もそのまま残る

婚姻を切らなければ、遺族年金も相続の優遇も扶養もそのまま残る

では、離婚ではなく卒婚を選ぶと、制度の上では何が変わらずに残るのか。これがもう一つの条件にあたる。婚姻関係を続ける限り、配偶者は法律上の配偶者であり続ける。だから相手が亡くなったとき、遺族厚生年金を受け取れる立場も、相続人としての立場も、健康保険の扶養に入れる立場も、原則として保たれる。離婚すれば、これらはいずれも外れる。

相続では、配偶者の税額の軽減という大きな優遇がある。配偶者が実際に取得した正味の遺産が、一億六千万円か法定相続分相当額のいずれか多い額までなら、相続税はかからない(国税庁タックスアンサーNo.4158・令和七年四月一日現在)。ただし注意がいる。これは相続税の申告をして初めて使える制度で、申告期限までに分割が済んでいない財産は、原則として対象から外れる。期限内に「申告期限後3年以内の分割見込書」を出し、三年のうちに分け直せば救済される道はあるが、いずれにせよ黙っていて自動で効くものではない。適用できる額は財産の構成や相続人の顔ぶれで変わるから、最終的には税務署や税理士に当たって確かめてほしい。

3. その遺族年金は、いま静かに形を変えつつある

その遺族年金は、いま静かに形を変えつつある

制度が残る、と書いた。けれどその一つ、遺族厚生年金は、今まさに作り替えの途中にある。二〇二五年六月十三日に成立した年金制度改正法は、この給付の位置づけを、生活を立て直すための一定期間を支える年金へと改めた(厚生労働省「遺族年金制度等の見直しについて」)。

変わるのは主に、子のいない配偶者だ。これまで子のない妻には終身で支給される一方、夫は受給そのものに年齢の壁があった。改正後は、六十歳未満で配偶者を亡くした場合は原則五年の有期給付に統一され、男女の差はならされる。五年のあいだは加算で手厚くし、その後は所得の少ない人などに継続給付を残す設計だ(同見直し/大和総研・二〇二五年六月の試算資料)。施行は二〇二八年四月の予定で、対象は一九八九年度以後生まれが軸になる。だから今五十代の人がただちに影響を受けるわけではない。それでも卒婚を「配偶者として遺族年金まで見込んだ選択」と考えるなら、自分や相手の世代がどちら側に立つのかは、年金事務所や日本年金機構で一度確かめておくに越したことはない。なお、ここで挙げた施行時期や支給の中身は、いずれも本稿執筆時点の制度に基づく。施行前の見直しは、細部がなお動きうる。

4. 「離婚しない自由」の値段は、二世帯ぶんの固定費で決まる

「離婚しない自由」の値段は、二世帯ぶんの固定費で決まる

ここで一度、対極にある熟年離婚を見ておきたい。厚生労働省の人口動態統計では、同居二十年以上の夫婦の離婚が、離婚全体の二割超で推移している。同居五年未満の早期離婚に次ぐ、もう一つの山だ。彼らはなぜ卒婚ではなく離婚を選ぶのか。理由はさまざまだろうが、制度の面から見ると、離婚は財産分与で資産を一度きれいに割り、相手との金銭的な縁を断つ踏ん切りでもある。

卒婚はその逆を行く。資産を割らない代わりに、二人ぶんの生活をこの先ずっと回し続ける。別居型なら住まいが二つになり、家賃も光熱費も単純に二重化する。同居のままでも、互いの自由には旅費も交際費もかかる。つまり「離婚しない自由」には値段がついていて、その額は感情ではなく、二世帯ぶんの固定費という計算で決まる。ここを試算せずに言葉だけ先に決めると、数年で立ちゆかなくなる。年金の見込み額と、想定する暮らしの月々の固定費。この二枚を紙に書き出すところからしか、現実の卒婚は始まらない。

5. 卒婚が成り立つ夫婦と、言葉だけが残る夫婦

卒婚が成り立つ夫婦と、言葉だけが残る夫婦

整理すると、卒婚が実際に成立するのは、二つの条件がそろった夫婦だ。一つは、双方が相手の収入に頼らず暮らせる金銭的な足腰。もう一つは、婚姻を続けることで保たれる制度上の立場――遺族年金、相続の配偶者軽減、扶養――が、自分たちの状況で意味を持ち、その中身、とりわけ遺族年金の改正まで把握できていること。この二つが欠けたまま卒婚を名乗ると、それは関係の更新ではなく、我慢の継続にやわらかい名前をつけただけになりかねない。

だから、もしあなたが今この言葉に惹かれているなら、相手の顔を思い浮かべる前に、まず数字を二つ確かめてほしい。自分と相手それぞれの、ねんきん定期便や年金事務所で分かる将来の受取見込み。そして、別々に、あるいは距離を置いて暮らしたときの、二人ぶんの月々の固定費。その二枚がそろって初めて、卒婚という選択は、きれいな言葉から、あなたの手で選べる現実の道に変わる。

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