老後資金は「いくら」ではなく「取り崩し方」で9割決まる
老後資金は「いくら貯めたか」より「どう取り崩すか」で決まる
定額と定率、崩す口座の順番、下落相場との付き合い方
2019年6月、金融庁の金融審議会が「高齢社会における資産形成・管理」という報告書を出した。世間が覚えているのは、そこから独り歩きした「2000万円」という数字だけだ。だが報告書の主題は、いくら貯めるかではなかった。貯めた資産の「寿命」をどう延ばすか、である。報告書はこれを「資産寿命」と呼び、現役期・リタイア期前後・高齢期の三段階に分けて、計画的な取り崩しの必要を説いている(金融庁「金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書『高齢社会における資産形成・管理』」令和元年6月3日)。
貯める話として語られ続けた。だが本題は、崩し方にあった。
「2000万円」は貯める話ではなく、崩す話だった
あの数字の出どころは単純だ。報告書は2017年の総務省「家計調査」から、高齢夫婦のみの無職世帯(夫65歳以上・妻60歳以上)の家計を引いた。実収入が月およそ21万円、実支出が月およそ26万円。差し引き、月およそ5.5万円の赤字である。この赤字を30年続ければ約1980万円、丸めて約2000万円。20年なら約1300万円。そう試算した(同報告書、2017年の総務省「家計調査」による。なお報告書本文は不足額を「約5万円」と丸めて記している)。
つまり2000万円は、貯金の目標額ではない。取り崩しの総量を機械的に足しただけの数字だ。前提が変われば額も変わる。持ち家か賃貸か。厚生年金か国民年金か。支出をどこまで削れるか。報告書自身、不足額は人によって大きく異なり、不足しない場合もあると但し書きを付けている。
ここで一つ脱線する。同じ報告書は、一方で赤字の総額を数字で言い切りながら、他方では「自分自身の状況を『見える化』した上で対応を考えていく必要がある」とも書いていた。後者を軸に読めば、あの騒ぎ方はまるで違っていたはずだ。世間が飛びついたのは、前者の数字だけだった。
話を戻す。総額に意味が薄い理由は、もう一つある。取り崩す期間が、誰にもわからないことだ。
厚生労働省の令和6年簡易生命表によれば、65歳の平均余命は男性19.47年、女性24.38年。単純に足せば、男性は84歳、女性は89歳あたりまで生きる計算になる。だが平均は真ん中でしかない。90歳まで生きる人は、男性で25.8%、女性で50.2%いる(厚生労働省「令和6年簡易生命表」2024年)。女性は、二人に一人が90歳を超える。
取り崩しが15年で終わるのか、30年続くのか。始める時点では決まっていない。総額をいくら積んでも、この不確実性は消えない。効いてくるのは、崩し方のほうだ。
定額で崩すか、定率で崩すか ― 同じ残高でも寿命が変わる
取り崩しには、大きく二つのやり方がある。
一つは定額。毎月10万円と決めて、同じ額を引き出す。生活費が読めるのが利点だ。欠点は、相場が下がった局面でも同じ額を売る点にある。安いときに多く売れば、口数が早く減る。回復期に戻すべき元本が痩せる。残高がゼロに近づく速度が、思ったより速くなる。
もう一つは定率。たとえば残高の4%と決めて、毎年その割合を引き出す。残高が減れば引き出し額も減るため、理屈のうえでは資産はゼロになりにくい。下落時に売る量が自動で減る。利点はここだ。欠点は、収入が毎年ぶれること。相場の悪い年は、使える額が目減りする。
どちらが正解という話ではない。定額は暮らしが安定し、資産が不安定になる。定率は資産が安定し、暮らしが不安定になる。ちょうど逆の性質だ。
現実には、二つを混ぜる人が多い。基礎的な生活費は定額で確保し、余裕資金だけ定率で回す。あるいは、相場が荒れた年だけ引き出しを絞る。大事なのは、崩し始める前に、自分がどちらの型に寄るかを決めておくことだ。決めずに始めると、下落のたびに手が止まる。その迷いが、いちばん高くつく。
課税口座、NISA、年金 ― どの順で手をつけるか
崩す順番も、資産の寿命を左右する。
手元に三つの財布があるとする。特定口座などの課税口座、NISA口座、そして公的年金。性質がまるで違う。
課税口座は、運用益に20.315%の税がかかる(所得税・復興特別所得税15.315%、住民税5%)。100万円の利益を確定すれば、約20万円が税で消える。NISAは、2024年からの新制度で運用益が非課税になった。非課税で保有できる限度額は生涯で1800万円までである(金融庁「NISAを知る」制度概要。うち成長投資枠は1200万円まで)。
ここから、素直な原則が出てくる。非課税で伸びる財布は、できるだけ長く置いておく。だから、先に手をつけるのは課税口座のほうだ。NISAは後に回し、非課税の複利をより長く働かせる。順番を逆にすれば、非課税の恩恵を自分の手で削ることになる。
三つ目の財布、年金には、もっと強い仕掛けがある。受け取りを65歳より遅らせる「繰下げ」だ。1か月遅らせるごとに0.7%増える。75歳まで遅らせれば84%増。しかもこの増額は、生涯続く(日本年金機構「年金の繰下げ受給」)。
繰下げは、事実上いちばん確実な「利回り」だ。相場に左右されない。長生きするほど得になる。にもかかわらず、選ぶ人は少ない。老齢厚生年金の受給権者で、繰下げ受給率は令和5年度末で1.6%ほどにとどまる(厚生労働省「厚生年金保険・国民年金事業の概況 令和5年度」)。多くの人が、いちばん堅い増やし方を使っていない。
だから、資産を取り崩す局面は、年金を育てる好機でもある。貯めた資産を先に使い、その間、年金の受け取りを遅らせる。終身で増えた年金は、長生きリスクへの最も素直な備えになる。
ただし、ここは人によって最適解が割れる。iDeCoの受け取り方は退職所得控除と絡み、退職金の受給時期とぶつかると税額が跳ねることがある。健康状態によっては、繰下げが裏目に出ることもある。ここに書いたのは一般論だ。制度も税率も改正される。実際に動かす前に、ねんきんネットで自分の見込み額を出し、税理士や社会保険労務士に一度当ててほしい。最後に決めるのは、あなた自身の数字だ。
下落相場は、取り崩す人にだけ牙をむく
最後に、積み立て期には無害で、取り崩し期にだけ牙をむくリスクがある。
同じ平均利回りでも、暴落が「いつ」来るかで結果が変わる。投資の世界で「収益率配列のリスク」と呼ばれるものだ。
積み立て期なら、暴落はむしろ味方になる。安く買える。時間が回復を待ってくれる。ところが取り崩し期は逆だ。暴落と同時に引き出せば、安値で資産を切り売りすることになる。減った元本は、その後の反発に乗り切れない。取り崩し初期の数年に暴落が当たると、資産の寿命は何年も縮む。平均利回りが同じでも、である。
これが、総額だけでは防げない理由だ。3000万円あっても、崩し始めた直後に相場が大きく落ちれば、崩し方を工夫した2000万円より早く尽きることがある。
対策は地味だ。取り崩し初期の数年分の生活費を、値動きのない現金で持っておく。暴落の年は、株ではなく現金を使う。相場が戻るまで、投資に回した分には手をつけない。この「現金のバッファ」が、収益率配列のリスクをやわらげる。派手さはない。だが効く。
老後資金の話になると、人はまず「いくら足りるか」を数える。だが足りるかどうかを最後に決めるのは、総額そのものより、それをどう崩すかだ。定額か定率か。どの財布から手をつけるか。年金をいつ受け取るか。暴落の年に、何を売るか。
一度、電卓を置いてみてほしい。そして紙に、自分の財布を三つ書き出してみてほしい。課税口座、NISA、年金。どこから、どの順で、どれくらいの速さで崩すか。順番を決めるだけで、同じ金額が何年も長持ちする。貯めることに何十年もかけたのなら、崩し方を考える数時間を、どうかそこに足してほしい。
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