認知症に備える任意後見制度
認知症に備える任意後見制度
契約から発効までの仕組みと、できること・できないこと
「任意後見契約に関する法律」の条文を、頭から読んだ。第三条に、契約は公証人の作る公正証書でしなければならない、とある。第四条に、効力が生じるのは家庭裁判所が任意後見監督人を選任したときから、とある〔任意後見契約に関する法律 第3条・第4条〕。
この二条を並べて、ようやく腑に落ちた。任意後見の契約書に署名した日、後見はまだ始まっていない。財産の管理も、施設の契約も、その時点では何ひとつ動かない。動き出すのはずっと先だ。本人の判断能力が落ちて、家庭裁判所が監督人を選んでからになる。
「認知症になっても財産を守る仕組み」という言い方をよく見る。半分は正しい。だが、契約さえ結べば自動で守られる、という意味ではない。守りが動き出すまでにはいくつもの段階がある。しかも、後で見るとおり、この制度でできることには、はっきりした限界がある。契約から発効まで、順を追って見ていく。
1. 契約は公証役場でしか結べない。署名した日には、まだ何も始まっていない
任意後見契約は、当事者どうしが紙に署名するだけでは成立しない。法律で、公証人が作る公正証書によらなければならないと決められている〔任意後見契約に関する法律 第3条〕。狙いは、本人の意思と判断能力を、法律の専門家である公証人に直接確認させることだ。後になって「あの契約は無効だ」という争いが起きるのを防ぐためだとされる〔日本公証人連合会 資料〕。
契約するのは、本人(委任者)と、将来その人を支える受任者の二人。受任者には家族を選んでもよいし、司法書士や弁護士を選んでもよい。契約書には、財産管理と身上監護について、何をどこまで代わりにやってもらうか――代理権の範囲――を書き込む〔任意後見契約に関する法律 第2条〕。
費用の入り口は、公正証書の作成手数料だ。一契約につき一万三千円〔日本公証人連合会 資料〕。二〇二五年十月の手数料改定で、それまでの一万一千円から上がった〔日本公証人連合会「公証人手数料令の改正について」〕。証書の枚数が法務省令の基準を超えると一枚ごとに三百円、本人が入院中で公証人が出張する場合には六千五百円が加わる。契約を結ぶと、この後すぐ登記される。その費用も含めて、次に見る。
繰り返すが、署名した日は出発点にすぎない。この日から後見が始まると思い込んでいると、いざ本人の判断能力が落ちたとき、家族は「契約したはずなのに、何も使えない」と戸惑うことになる。
2. 契約するとすぐ登記される。ただし将来型では、任意後見人になる人の仕事はまだない
契約が結ばれると、公証人がその内容を法務局に登記する〔公証人法57条の3〕。監督人が選ばれて効力が発生するのを待たず、直ちに登記される〔法務省・日本公証人連合会 資料〕。登記の事務は、全国分をまとめて東京法務局が扱う。このとき、公証人に払う登記嘱託手数料が一六〇〇円、法務局に納める収入印紙代が二六〇〇円かかる〔日本公証人連合会 資料〕。登記が済むと、受任者は代理権の範囲を書いた登記事項証明書を受け取れる。将来、実際に動くとき、この証明書で相手方に権限を示すことになる。
ただし、登記されても、受任者にはまだ何の権限もない。任意後見には実務上、将来型・移行型・即効型の三つの型がある〔日本公証人連合会 資料〕。このうち、法律が最も一般的な形として想定しているのが将来型で、本人が元気なあいだは受任者に一切の事務を頼まない。判断能力が落ちて初めて支援が始まる。だから将来型では、契約から発効までのあいだ、受任者は文字どおり出番を待っているだけになる。
移行型と即効型については、費用や使い分けとあわせて後の6で述べる。
3. 判断能力が落ちたとき、家裁に申立てる人がいなければ、制度は動かない
本人の判断能力が不十分になったら、家庭裁判所に「任意後見監督人を選んでください」と申立てる。これができるのは、本人、配偶者、四親等内の親族、そして受任者に限られる〔任意後見契約に関する法律 第4条/裁判所 手続案内〕。申立て先は、本人の住民票上の住所地(または実際に住んでいる地)を管轄する家庭裁判所だ〔裁判所 手続案内〕。
ここに制度のいちばんの弱点がある。契約を結んでいても、判断能力が落ちた「その時」に、誰かが動いて申立てをしなければ、監督人は選ばれず、効力は生じない。受任者が申立てを怠れば、制度はそのまま止まる。
数字がそれを裏づける。最高裁判所の集計では、令和6年(2024年)の一年間に、任意後見監督人の選任を申立てた件数は全国で八七四件だった〔最高裁判所事務総局家庭局「成年後見関係事件の概況―令和6年1月〜12月―」〕。同じ年、後見・保佐・補助を含む成年後見全体の申立ては四万一八四一件ある。任意後見はそのうち約二パーセントにすぎない。十年前の平成26年でも七三八件、翌令和7年(2025年)も八八一件で、ほとんど横ばいのままだ〔前掲概況/最高裁 平成26年・令和7年概況〕。備えの制度として名は知られているわりに、実際に発効まで進む例は驚くほど少ない。
4. 監督人が選ばれて、初めて効力が生じる。その監督人は、本人には選べない
申立てを受けた家庭裁判所が、任意後見監督人を選任する。この選任の瞬間に契約は効力を生じ、受任者は正式に「任意後見人」になる〔任意後見契約に関する法律 第4条〕。ここまで来て、ようやく財産管理や施設契約が動き出す。
監督人は、任意後見人がきちんと仕事をしているかを見張る役だ。財産目録を出させ、定期的に家庭裁判所へ報告する〔裁判所 手続案内/日本公証人連合会 資料〕。本人はもう自分では後見人をチェックできないから、代わりに監督人が置かれる。
注意したいのは、この監督人を本人や家族が選べない点だ。家庭裁判所が、弁護士・司法書士・社会福祉士といった第三者の専門職から選ぶことが多い〔東京家庭裁判所「任意後見監督人選任の申立てをされる方へ」〕。しかも、受任者本人やその配偶者・直系血族・兄弟姉妹は、監督人にはなれないと決められている〔法務省・裁判所 資料〕。成年後見全体で見ても、後見人等に選ばれたうち第三者が八割超(約八二・九パーセント)、親族は一七・一パーセントにとどまる〔前掲 令和6年概況〕。監督人への報酬は、家庭裁判所が金額を決め、本人の財産から支払われる〔東京家庭裁判所 資料〕。これは発効しているあいだ続く費用になる。「息子を後見人にして、次男に監督させれば無料で済む」とはいかない。監督人は外から入ってくるのが通常だ。
申立てそのものの実費は、申立ての収入印紙が八百円、後見登記のための収入印紙が一四〇〇円、それに郵便切手が三千円前後(裁判所によって二千円台から三千円台まで幅がある)〔裁判所 手続案内〕。さきほど契約時に一度登記しているが、監督人が選ばれると「誰が監督人になったか」がもう一度登記される。その分の印紙である。加えて、本人の判断能力について鑑定が必要と判断されると、十万〜二十万円ほどの鑑定費用がかかることがある〔裁判所 手続案内〕。もっとも、実際に鑑定まで行う例は多くない。令和6年に鑑定が実施されたのは全体の約三・八パーセント、費用も五万円以下が約四四・五パーセント、十万円以下が約八七・一パーセントを占めていた〔前掲 令和6年概況〕。
5. できるのは財産管理と身上監護。取消しも、手術の同意も、死後の手続きもできない
任意後見人が実際にやれるのは、契約で決めた範囲の「法律行為」の代理だ。大きく二つに分かれる〔日本公証人連合会 資料〕。ひとつは財産管理――預貯金や不動産の管理、年金の受取、税金や公共料金の支払い。もうひとつは身上監護――要介護認定の申請、介護サービスの契約、施設への入所契約、医療契約の締結などである。
ここで誤解が多いので、はっきり書く。任意後見人の仕事は代理権を使うことであって、自分で介護をしたり掃除をしたりすることではない〔日本公証人連合会 資料〕。おむつを替えるのは後見人の職務ではない。
そして、できないことがはっきりある。第一に、取消権がない。本人が判断能力を失ったあと、訪問販売などで不利益な契約を結んでしまっても、任意後見人はそれを一方的に取り消せない。任意後見人に与えられるのは代理権だけで、同意権も取消権もない〔東京家庭裁判所 資料〕。これは法定後見の成年後見人と大きく違う点だ。成年後見人なら、本人が単独でした不利益な契約を後から取り消せる〔民法9条・第120条〕。任意後見が本人の自己決定を尊重する制度である裏返しで、本人を守る力はその分だけ弱い。
第二に、医療行為への同意権がない。手術や延命治療に同意する権限は、任意後見人にも成年後見人にもない〔法務省・裁判所 資料〕。医療を受けるかどうかは、憲法が保障する本人の自己決定に属する事柄であり、後見人にはその代行が認められていない。現場では、本人以外に判断できる人がいなければ、家族の同意で手術が行われることが多い。ただしそれは後見人の権限ではなく、あくまで家族としての判断による。
第三に、死後の手続きができない。任意後見契約は、本人が亡くなった時点で終わる。だから、死亡届の提出、葬儀、相続の手続きといった死後の事務は、任意後見人の権限の外にある。ここに備えたいなら、任意後見とは別に、死後事務委任契約を結んでおく必要がある。
6. 将来型・移行型・即効型。費用と、法定後見・家族信託との境目
三つの型に戻る〔日本公証人連合会 資料〕。将来型は、元気なうちに契約だけ結び、判断能力が落ちてから発効させる、いちばん基本の形。移行型は、判断能力はまだ十分でも、足腰が弱ってきたなどの理由で今から手伝ってほしい場合に使う。通常の委任契約と任意後見契約を、ふつうはひとつの公正証書でセットにして結び、当初は委任契約で財産管理を任せ、判断能力が落ちたら任意後見に切り替える。即効型は、軽い認知症などですでに判断能力が下がり始めている人が、契約の直後に発効させる形だ。ただし即効型でも、契約の内容を理解できるだけの能力は要る。
費用を整理する。入り口で、公正証書の作成に一万三千円台、契約の登記に四千円あまり〔登記嘱託手数料一六〇〇円+収入印紙二六〇〇円〕。発効の申立てで実費が数千円、鑑定があれば十万円前後。そして発効後は、監督人への報酬が本人の財産から続いていく。金額の細部は、契約の中身や本人の状況、裁判所・公証役場によって動く。本稿は制度の一般的な仕組みをたどったものにすぎない。実際に検討するなら、最寄りの公証役場と、本人の住所地の家庭裁判所、必要なら司法書士や弁護士に、自分のケースの具体的な数字を確かめてほしい。
制度の選び分けも押さえておきたい。すでに判断能力を失っている人は、任意後見を新たに結ぶことはできない。契約内容を理解する力がもう無いからだ。この場合は、家庭裁判所が後見人を選ぶ法定後見しか道がない。逆に、まだ元気なうちに「誰に・何を頼むか」を自分で決めておきたいなら、任意後見が向く。なお、実家を売って組み替えるといった資産の設計まで柔らかく託したいなら、任意後見や法定後見とは別に家族信託という制度も検討の対象になる。任意後見人の仕事は、あくまで本人の利益のための管理であって、相続対策や資産運用の自由な道具ではない。ここを取り違えると、発効してから「思っていたことができない」となる。
最後に、取り違えやすい点だけをもう一度。任意後見契約は、公証役場でしか結べない。効力が生じるのは署名した日ではなく、判断能力が落ちて家庭裁判所が監督人を選んだ日からだ。動かすには、その時に誰かが申立てをしなければならない。できるのは本人のための財産管理と身上監護で、不利益な契約の取消しも、手術の同意も、死後の手続きも、この制度の外にある。備えとしては有効だが、万能ではない。何を託せて何を託せないかを先に知っておくことが、いちばんの備えになる。
コメント
コメントを投稿
記事をお読みいただきありがとうございます。
ご意見・ご感想・ご質問をお気軽にお寄せください。
※スパム対策のためコメントは管理者承認後に公開されます。
※医療・法律・税務に関する個別相談はお受けできかねますので、専門家にご相談ください。